なまぬるいスープ 番外編
彼と私の罰ゲーム
written by 曽野 十瓜
***
日曜日の喫茶店。メニューごしに彼の仏頂面が見える。
「同じものでお願いします」
横で注文を待っていたウェイターにそう告げた。「かしこまりました」と、頭を下げて去っていく。
「いいの?」
向い側で、カーキ色のTシャツに淡い青の綿シャツを羽織った彼が頬杖をついて尋ねてきた。
「何がです?」
「おれ、飲み物、ウォッカ頼んだんだけど」
「うぉっ……!?」
「飲めるの?」
「……飲めません。ごめんなさい。注文しなおしてきます」
慌てて立ち上がろうとしたけど「いいよ。おれが飲むから」と止められた。浮かせた腰をゆっくり落とす。
彼は頬杖のまま顔を窓に向けた。ガラス張りの壁からは午後の陽射しが差し込んでくる。外では汗だくの人たちがハンカチや腕で額を拭いながら歩いていた。その暑苦しい様を、彼がガラス一枚内側から涼しい顔で眺めている。
涼しい顔。無表情。それは、怒っている顔、とも言えるけど。
彼はこのごろいつも不機嫌だった。正確に言うと、「会って喋っているうちに不機嫌になっていく」のだけれど。原因はわかっている。私だ。食事に行く度「なんでもいい。同じもので」と言う私に物足りなさといらだちを感じているのだ。
それにしても、失敗した。アパートから近いけど、一度も入ったことないから知らなかった。このカフェテラスがお酒を出しているなんて。しかも昼間に。
そして、彼が昼間からお酒を注文するなんて思わなかった。多分、私を試したんだろうけど。……何も考えていないことがばれてしまった。
「お待たせいたしました。ウォッカのコーク割りになります」
ウェイターがタンブラーグラスを二つ、テーブルに置いた。コップの中で、濃いブラウンの液体が無数に丸い気泡を発している。その中央にひときわ大きな球体がひとつ。丸くカットされたその氷の表面からも小さな泡が立ち上っていく。綺麗だった。
「ミルクティー、追加して下さい」
彼のその声に我に返った。
「あ! ご、ごめんなさい。私――」
「ミルクティーでよかったよな?」
「はい……」
ぼんやりしていて、彼に注文させてしまった。何も言っていないのに、いつも飲んでいるものを注文してくれた。私が好きなものを覚えてくれている。本当に申し訳ない気持ちになってくる。
ウェイターが再び去ると、彼はタンブラーを二つ分引き寄せた。ウォッカなんて強いお酒、二杯も飲めるのかしら? 夜に食事するときもほとんど飲まないし、前に「あんまり呑めない」って言ってたような気がするのだけど……。
「なぁ、おれたち婚約してるんだよな?」
ひと口ふた口飲んだ後、彼はそうきりだしてきた。問われてうなずく。
私は五年ほど前に立て続けに両親を亡くしている。一人で生きていくつもりだったのに、お節介な親戚がいくつもいくつも見合い話を持ってきた。八割方は話を持ち込まれた時点でお断りした。断り続けるのも親戚に申し訳ないので、残り二割の方には渋々お会いした。一割九分九厘には、すぐに向こうからお断りされた。残り一厘が、目の前にいる彼。彼は断らなかった。私も、断れなかった。
それから約一年半、おつきあいが続いている。プロポーズされたのは三カ月ほど前になる。
「敬語、使うのやめない?」
その三カ月の間に、彼から敬語が消えていた。
「あ、はい。でも、私のはクセみたいなものですから」
「ダメ。敬語禁止」
強い調子で言い放って、彼はウォッカをあおった。そのままの反動で空のグラスをテーブルに置いた。
「よし、ゲームにしよう。敬語禁止ゲーム。言ったら罰ゲームな。1デスマスにつきキス1回」
「そ、そんなのあなたの圧勝に決まってるじゃないですか」
だいたい「1デスマス」ってどういう単位よ……?
「あ、もう言ってる。これからあと何回言うつもりだ? この分だったら、体じゅうにチュウできるな。夜が楽しみだなぁ」
というか、このひと……、酔ってる……。
「やっぱり、これ、私が飲みます」
もう一つのタンブラーグラスに手を伸ばすと、彼もグラスを掴んだ。その拍子にお互いの指が触れ合った。お酒のせいか、彼の指はとても熱かった。思わず手を引っ込めてしまう。
そんな私を彼は据わった目で見つめてきた。
「真面目な話、この頃なんか変だよ。おれのこと嫌がってない? 何かあるんだったら言ってくれよ」
「い、いえ。嫌がってなんて、そんなことはないです……」
頭を振ったところで、食べ物が運ばれてきた。オムライスのキノコクリームソース添えが2つ。ライスの上のオムレツがぷるぷる震えている。……ウォッカと全く合わない気がする。
「ふぅん」
気の抜けたあいづちを返し、彼はスプーンをオムレツの中心に突き立てた。半熟の中身が流れ落ち、ライスが黄色く染まった。それから二人とも無言で食べ始めた。
とてもとても気まずい空気。奇跡的に一年半もおつきあいできたけど、これは今日にでも別れ話を持ちだされそうだわ。
でも、仕方ない。この雰囲気を作ったのは私なのだから。彼は懸命に歩み寄ってくれているのに、私が壁を作っている。敬語を使い続け、自分の意見も言わず、体にも……触れさせていない。二、三度のキス。それだけ。こんな女、飽きられて当然。
それで、いい。
向かい側を見る。この頃、彼と喋るのが辛い。以前のように自然に会話できない。彼は早くもオムライスを平らげようとしていた。「もっとゆっくり食べてよ」と心の中で訴えてみる。また喋らなきゃいけなくなってしまう。場がもたない……。
そのとき、横のガラス壁が叩かれる音がした。見ると、私たちの真横で背広姿の大きな男の人が壁を叩いていた。
***
クマみたいなその背広姿の男性は店に入ってきた。そして、黒いアタッシュケースを足許に置くと彼の横に陣取った。
「やぁやぁ、お邪魔しますよ〜!」
聞けば、彼の同僚で親友だと言う。
「末松でーっす。よろしくぅ」
軽い自己紹介をしながら、末松さんは彼のお冷を横取りして飲み干した。
「おまえ、本当に遠慮というものを知らないな」
彼がそう呆れ顔で呟くのを、末松さんは「おまえは遠慮しすぎ。っていうか、いちいち遠慮なんかしてたら客取れないっての」と強引に自分を正当化しながらメニューに手を伸ばした。そしてウェイトレスを捕まえて、カツカレー大盛りと大根シャキシャキサラダを注文した。
「噂には聞いてますよ、フィアンセさん。なるほど、可憐だなぁ。絶滅寸前のヤマトナデシコって感じ」
ウェットタオルで手を拭きながら、末松さんは私の顔を眺めて豪快に笑った。その目がティーカップを持つ私の左手にとまった。
「……あれ? 婚約指輪は?」
この人、思ったことを即座に口にしてしまうタイプのようだ。そして私たちが何も言っていないのに「ああ」と何やら一人で納得して、続けた。
「そうか。作ってる最中か」
「いや、作ってない」
応えた彼の眉間に皺が寄り、二杯目のウォッカに口をつけた。
「彼は作ってくれるって言ったんですけど、私がお断りしたんです。指輪一つに何十万もかけるよりは、結婚後の貯蓄に回したいから……」
私がそう解説すると、彼は「結納もしてない。結婚しようって口約束だけ」と同僚に告げた。そんなこと自分から言わなくてもいいのに。いつもの彼じゃない。ああ、完全にヤケになってる……。
「結納も……、すごくお金かかるから……」
更にそう付け加えておいた。
「へぇ。しっかりしたひとじゃないか。うちのヤツとは正反対だ。『指輪はピンクダイヤじゃなきゃヤだ〜』とか、『ドレスはブランド物のオ〜トクチュ〜ルじゃなきゃ〜』とか、金のかかる我儘放題だったぞ」
末松さんがかばってくれたけど、彼は顔をしかめたままだ。そんな彼を見て、末松さんが軽く溜息をついた。
「まぁ、おまえは形式とか好きだからなぁ。手順踏まないと不安で仕方ないんだろ」
「形式が好きっていうか、一生に一度のことだから、一応最低限のことはしておきたかったんだ。別に……いいけどな!」
グラスをあおろうとする彼の手を、末松さんが掴んだ。そして、グラスを取り上げた。顔に近づけ、鼻を鳴らしている。
「なんじゃこりゃ。酒じゃないか。どうりで様子が変だと思ったよ。昼間っから何やってんだ」
「いいだろ、別に。返せよ」
「やだね。いただき〜」
と、末松さんは一気にグラスを空けてしまった。口に入れた途端眉をしかめたけど、結局全部飲み込んだ。だ、大丈夫なのかしら……。
「うは、こりゃまた乙な味だな。ウォッカとコーラ? もっと飲もうかな。あ、でも、やっぱりビールがいいなぁ」
どうやら心配は無用だったらしい。とてもお酒に強い体質のようだ。いや、それはおいておくとしても、気になることがひとつ。
「あの、もっと飲む……って、末松さん、仕事中なんじゃ……?」
背広姿のサラリーマンに一応そう確認をとってみた。相手は頭と手を同時に左右に振った。
「いや、出張の帰りですからノープロブレム」
「こっちは問題大アリだ。デェトの邪魔すんな。パパはとっとと自分のおうちに帰れっ」
「うははは〜。ラブラブカップルのデートなんてのは邪魔するためにあるんだよ。あ、店員さん、こっちに生ビールのピッチャーね。え? ピッチャー無い? じゃ、キャッチャーで! ウソウソ、グラスでいいからビールちょうだい。よろしく!」
こうして、午後三時からの酒盛りが始まった。
***
外はもうすっかり暗くなっている。ガラス壁に外のネオンと室内の照明が乱反射していた。
おしゃれなガラス張りのカフェテラスの一角は、居酒屋と化していた。
最初は周囲の視線が厳しかった。まぁ、騒がしく何時間も居座っていても、オーダーは何度も取ってるから追い出されはしなかったけど。お酒を出すところだし、夜になって客層が変わってきたらそう違和感もなくなってきたし。
でも、……私は居づらい。末松さんはお話の上手な人だし、私が知らなかった彼の長所をどんどん引き出してくれる。面白いお話を聞いているのはとても楽しいのだけれど。だけど、居づらい。もともと騒がしいのは好きじゃないから。
そのうち、末松さんはカバンから定期入れを取り出した。家族の写真が挟まっている。公園のベンチで少しぽっちゃりした体型の奥さんが赤ちゃんを抱いていた。傍に五歳ぐらいの女の子が寄り添っている。「上の子がアルファベットを言えるようになった」とか「下の子が寝返りをうてるようになった」とか、アルコールで赤くなった顔で語ってくれた。きっと、雲行きの怪しかった私たちの様子を見て、「結婚したらこんな幸せなことがあるんだよ」と教えてくれているのだろう。
……私には訪れない幸せなこと、が。
そのとき、お腹が痛くなり始めた。そして頭も。連動して、脂汗まで出てきて息苦しくなる。これは……我慢できそうにない。思わず腕時計を見た。時間をすっかり忘れてしまっていた。
「すみません……、私、ちょっとおトイレに……」
椅子の背もたれと背中の間に挟んでおいたショルダーバッグを肩に掛け、へっぴり腰で立ち上がった。「はーい」と返事をしたのは末松さんだった。私の彼は、ほとんど潰れてしまっている。私の声は多分聞こえていない。
「って、そのでかいカバン、置いていったら? 見張ってますから」
「いえ、必要なので……」
「あ、そうか。アレかぁ。女の人はたいへんだなぁ」
また何やら一人で納得して、うなずいている。何か激しく勘違いしているような気がするけど、構っていられなかった。慌ててトイレに駆け込んだ。
個室に入る。よく掃除された洋式トイレだった。洋式だったら座って休んでいられる。助かった。便座に腰掛けると、バッグを開いた。ポーチを取り出して開く。勢いよく開けすぎたせいで、いくつかのシートが落ちてしまった。とりあえず、必要な錠剤やカプセルをシートから取り出し、口に放り込んだ。バッグの底にしまっておいたペットボトルのミネラルウォーターで薬を流し込んだ。続けて、粉薬を飲む。これで、なんとか落ち着くはず。
ハンカチで額や頬の汗を拭った後、落としてしまった薬のシートを拾ってポーチに戻した。
「……もうイヤ、こんな体……」
言ってもどうにもならないことをつい呟いてしまう。生まれたときから三十年近く、この体は何かしら悲鳴をあげていた。ここが悪い、あそこが悪い。治っても別の場所が異常を訴える。そのイタチごっこがようやく終わって、普通の社会生活を送れるようになった頃、両親は死んでしまった。私は命を得たけど、引き換えにいろんなものを失った。
それに「普通の社会生活を送れる」と言っても、私の体は全快したわけではなかった。はっきりと対処法がわかる病気、手術が必要な病気を片づけたにすぎない。そもそもが全体的に虚弱らしい。原因不明の腹痛や頭痛に襲われることもしばしばで、痛み止めは手放せない。数時間おきに飲まねばならない薬もある。貧血で低血糖だし、交感神経もすぐにパニックを起こすし、ホルモンバランスも崩れてるし……。とにかく、不調はを挙げればキリがない。そして、いつまたどんな大病が発生するかわかったものではないのだ。
彼は知らない。病弱だとは伝えたけれど、ここまでひどいとは思っていない。発作も薬も必死に隠してきたから。
そのうちふられるだろうと思ってる間に一年たってしまった。そして、三カ月前にプロポーズされた。嬉しかった。こんな退屈な人間を選んでくれた彼についていこうと思った。だけど、日が経つにつれて、どんどん恐ろしくなっていった。
「はぁ」
深い溜息をついて、再び水を飲んだ。まだちょっとあちこち痛いけど、二人を待たせてしまっている。早く戻らなきゃ……。
取り出したものを全部バッグに押し込んで個室から出る。洗面台で乱れかけた髪を整えた。バレッタを一旦外して、またうなじで髪を一つにまとめておいた。
化粧室を出て席に戻ると、末松さんが申し訳なさそうに私を見上げて、横を指差した。
「ごめん。完全に潰しちゃった……」
末松さんの太い人差し指の先で、彼はピザを枕に突っ伏してしまっていた。
***
「よっこいしょ」
末松さんは掛け声とともに彼の肩から手を離した。完全に酔い潰れた彼は畳に座り込み、そのまま崩れて倒れてしまった。
「あの、ちゃんとベッドに寝かせてあげてください」
「酔っ払いにベッドはもったいないですよ」
「いいですから。早く寝かせてあげてほしいんです」
頼み込むと、彼を後ろから抱き起こし、両脇を抱えるようにしてベッドへ引っぱり上げた。私も足を持って手伝う。
「これでいいかな」
細身とはいえ脱力した成人男性の体を引き上げるのは、体の大きな男性にとってもさすがに重労働だったらしく、額から汗が流れていた。
「はい。ありがとうございます。お茶出しますから、座って下さい」
「いや、結構ですよ。お気持ちだけいただきます」
私の申し出を断って、末松さんはポケベルを取り出した。そして、何度かボタンを押して、画面を私に見せてくれた。「ハヤクカエッテキナサイヨ バカ」と表示されている。
「こんなのが十回以上きちゃってるもんだから、早く帰らなきゃ」
「そうですね。お嬢さん方もお待ちでしょうし」
「ええ」と苦笑いして、ポケベルをポケットにしまった。そのまま玄関に向かおうとして足を止め、周囲を見回した。妙な様子に思わず「どうしました?」と尋ねた。
「何も無い部屋だなぁと思って」
「そう、ですか?」
家具一式は揃っているのだけれど。
「あ、いや、おれが知ってる女性の部屋って、もっとこうフリルとか飾りの多いとこばかりでしたから。うちの妻の部屋もぬいぐるみだらけでしたし」
失礼なことを口走ってしまったという自覚はあるらしい。そそくさと玄関に出て靴を履いた。そこで末松さんは動きを止めた。振り返って私を見つめてくる。
「あの、余計なお世話だったら申し訳ないんですけど。あなた、あいつにものすごく遠慮して見えるんですけど。あいつもあなたに遠慮してるし……。お互い意識しすぎて、ぎくしゃくして見えるんです」
「そう、ですか?」
私は先ほどと全く同じ反応を返した。
「あいつ、気が優しいタイプだから頼りなく見えるかもしれないけど、いざとなったら頼れるヤツだから。もっと甘えていいと思いますよ」
「はい。そうしてみます」
これで話は終わったように感じたが、末松さんはなかなか帰ろうとしない。「あと」と、再び口を開いた。今度は何だろう?
「何かあったら、おれらでよければ相談にのりますよ。今度、うちの妻にも会ってやって下さい。きっと気が合うと思います」
「ぜひお願いします。お心遣い、ありがとうございます」
「じゃ、おやすみなさい」
末松さんはそう残して、今度こそ去っていった。
玄関のドアにカギをかけると、座敷に戻った。
今日会ったばかりの人とよどみなく喋ることができた。そう、本来の私は表面だけの微笑を浮かべて、社交辞令で適当に場を過ごすのが得意な人間だったのだ。多分、末松さんが私にとってどうでもいい存在だから、何も気にせずに喋れたのだ。
改めて、私はベッドで酔い潰れている彼の存在の大きさを認識した。
彼の家も末松さんの家もここからだと遠い。店を出たとき吐きそうだと言っていたので、タクシーに乗せるわけにもいかなかった。だから、あのカフェテラスから徒歩十分程度の私のアパートに運んでもらったのだ。
時計を見る。九時半だった。もうちょっと休んでもらって、電車がある時間に元気になれば帰ってもらってもいいし、ダメなようなら泊まってもらえばいい。……どうせ、この状態じゃ何もできないだろうし。
「……『何もできない』って、ナニ期待してるのかしら、私……」
そんなことを考えてしまう自分が恥ずかしい。つい、一人でツッコミを入れてしまう。
気を取り直して周囲を見回した。末松さんが「何も無い」と言った部屋を。確かに、必要最低限以外のものは置いていない。だって、何も必要無いから。
ベランダに向かい、洗濯物を取り込む。ついでにプランターの様子も見た。
隅に置いてある大きな植木鉢にはテッポウユリを植えてある。プロポーズされた日に球根ごと海辺から採ってきたものだった。花はもう枯れ落ちてしまっているが、来年にはきっとまた会える。きっと。
部屋に戻り、洗濯物を畳んでいると、円卓の下に錠剤シートが落ちているのに気づいた。朝、ポーチに詰めたときに落ちてしまっていたようだ。彼や末松さんに見つからなくてよかった。拾い上げて、タンスに向かった。一番上の引き出しから薬袋を取り出し、そこに戻しておいた。
そのとき、タンスの上の写真立ての存在にも気がついた。十代の頃の私と両親の写真だった。私は無菌室に、両親は廊下にいる。壁を隔てた親子。そんな、写真。これも見られるわけにはいかない。やはり、引き出しの中にしまっておいた。あぶないあぶない。
「んん……」
ベッドの上の彼が呻いた。少し暑いみたく、汗をかいている。冷房が嫌いだからいつも扇風機で過ごしているけど、今の彼には冷房の方がいいのかしら。そう思ってエアコンのスイッチを入れた。
次に、洗濯したばかりのタオルで彼の額や頬を拭った。感触に気がついたのか、うっすらと瞼が開いた。
「大丈夫? 気持ち悪くないですか?」
そう尋ねると、彼は私の目を真っ直ぐに見つめてこう言った。
「今日のあなたは144デスマスだぞ……。覚えといてな……」
そして、再び瞼を閉じた。たちまち呼吸が深くなる。
その様子に思わず吹き出してしまった。ひとしきり笑った後、彼の寝姿を眺めた。
初めて見る彼の寝顔。屈託が無くて、無防備で、可愛い。こんな表情が見れて幸せだと思う。同時に、末松さんのことを思い出した。奥さんやお嬢さんのことを楽しそうに喋っていた。今、ここで眠っている彼も、末松さんのお宅と同じような家庭を夢に描いているのだろう。
私は思わず自分の下腹に触れた。
……私はやっぱり、このひとのことが好き。
だから、決めた。明日、思っていたことを彼にきちんと告げよう、と。
***
台所で朝ご飯を作っていると、背後で「うああ!」というすっとんきょうな声が響いた。包丁を置いて和室を覗くと、彼が目を覚ましていた。上体を起こして、寝癖でボサボサになった頭を左右に振っている。
「おはようございます」
「あ、あ、おはよ……。あの、ここは……」
「私の部屋です。何もないところですけど」
「え、え、えぇ!? って、おれ、あなたに何もしてないですよね? 迷惑かけてすみません……」
タオルケットをよけて彼はベッドから出た。彼の言葉遣いに妙な違和感を覚える。
「迷惑なんて、何もないですよ。もうすぐご飯できますから、食べていきません?」
尋ねて、私は台所に戻った。卵焼きも作ったし、ご飯も炊けたし、後は切ったネギをお味噌汁に入れて火を止めるだけ。
「食べたいけど……、今日、月曜だよ、な……。……何時!? うわ、六時!?」
「まだ時間あるでしょう?」
「いえ。家に戻って着替えたり、カバン持ってきたりしないと……」
ああ、そうだった。その時間のことを考えてなかった。もうちょっと早く起こしてあげるべきだったのね……。
「ごめん。家帰ります。また今度いただきますから」
と、足早に台所を通って玄関に向かおうとしたところで彼は立ち止まった。立ち止まり、私の目を見て問いかけてきた。
「……『今度』は、あると考えていいんですか?」
「え……?」
「あなた、なんだか昨日と違う。覚悟決めたって顔してる。それは、おれと別れるっていう覚悟ですか?」
「……」
……い、言わなきゃ。チャンスは彼から作ってくれた。決めたことを、ちゃんと言わなきゃいけない。なのに、体が震え始めた。舌がもつれる。
「あ、あなただって、昨日と違う……」
やっと口にできた言葉は、言わねばならないこととは全く別のものだった。
「どうして、また敬語に戻っちゃったんです……?」
私はずるい。質問に答えないまま、質問を重ねて話をそらすなんて。
「自信が無くなったんです」
彼は律義に答えてくれる。
「おれが何をしてみても、あなたは打ち解けてくれない。何か悩んでるみたいだけど、打ち明けてくれない。おれはあなたが好きだから、少しでも近づきたいし触れ合いたいと思ってるけど、どんどん遠ざかってくみたいだし。どうすればいいのかわからないんです」
……ごめんなさい。
「本当はおれのこと好きじゃないんでしょうか。よく考えたら、プロポーズにはっきりした答、もらったわけじゃない気がするし。おれが一人で話進めてる気がする。ひょっとして、断るのが申し訳ないと思ってるから、断れないだけ? そんな気がしてきたんです」
……違います。違うんです。
私が何も言えずに立ちつくしていると、彼は自分をさげすむようなことばかりを言い始めた。
「嫌いなら嫌いって言って下さい。おれ、年収もあんまり無いし、不器用だから出世もあんまりできないだろうし、長男だし、一人っ子だから、もれなく親もついてくるだろうし、条件としては最悪ですよね。それに車も中古車だし、頭も悪いし、運動神経もそんなに良くないし、性格も変なところで短気だし、だからこんな男、嫌われても当然で――」
「やめて下さい!」
思わず喉の奥から飛び出したのは、強い制止だった。
彼はいきなりの私の噴火に驚いたようで、軽くのけぞった。その後、うなだれて、また自嘲的な言葉を続けた。
「すみません、ぐちぐちと……。おれ、男らしくないですね。また嫌われたかな」
申し訳なさそうにそう詫びる彼に向かって、私は叫んだ。
「違います! そんなに自分をおとしめないで! 嫌い嫌い言わないで!」
自分勝手にどんどんボルテージが上がっていく。そして、目の前がハレーションを起こしたように白くなっていく。
「あなたが悪いんじゃないの! 悪いのは全部私なの! 私の問題なの! あなたのことは好きで好きで好きだけど、でも、どうしようもないの! だって、私、体も弱いし! 私はあなたに何も残してあげられない! だから――ぁ」
その次の言葉は言えなかった。あっという間に腰から抱き寄せられ後頭部を引き寄せられたかと思うと、私の口は彼の唇に塞がれていた。ぶつかった鼻が少し痛い。それよりも、心臓のあたりが何故だか痛かった。
「ごめん。好きって言われて我慢できなくなった」
一度離れて、彼は低く呟くと、再び唇を重ねてきた。繰り返される軽くついばむようなキスに、足先から蕩けてしまいそう。力が抜けて膝から座り込む。そんな私を抱き留めて、一緒に膝をついた。彼が再び口を開く。
「おれは他に何も残らなくたって、あなたがいればそれでいい……」
……ああ、もうダメ……。
心の中のストッパーが、今、完全に外れた。
私は自分から彼に抱きついていた。もっと彼の匂いを、体温を確かめたくて、彼の背を掻き抱いた。そうして、自分から彼の頬に接吻した。少し目を丸くした彼に向かって確認をとる。
「罰ゲーム。1デスマスは1キスなのよね……?」
すると、彼はうなずいた。うなずいたけど、舌打ちした。
「変な罰ゲーム考えるんじゃなかった……。こんな幸せなの、罰にならないじゃないか。おれ、ずっと敬語で喋ろうかな」
「バカ……」
そう優しく罵ると、彼は笑った。太くはないけど、筋張った指が私の髪を何度もすいてくれた。
「なぁ、おれのこと好き……?」
彼も確認をとってくる。おそるおそる、ではあるけれど。こうすることで、崩れかけた関係を速攻で再構築しようとしているのだ。
「好き……」
蕩けきった頭でそう答える。
「本当に?」
「うん」
「結婚してくれるか?」
もう何も考えられない。彼だけが総て。
「ふつつかものですが、よろしくおねがいします」
「ありがとう……」
彼は息ができなくなるぐらい強く私を抱き締めてくれた。「200デスマスぐらい貯まってるだろ。このまま続きがしたいな」との申し出は「今から仕事でしょ」と却下しておいた。
「じゃ、家寄って……仕事行くか」
名残惜しそうに私の額にキスを重ねながら、彼はようやく立ち上がった。後ろで彼のために作った味噌汁が沸騰している音が聞こえたけど、無視して背中を追った。靴を履いた彼が、見送る私の頭を撫でてくる。
「ごめんな。せっかく朝ご飯用意してくれたのに。また今度来るから」
そう言って、彼は玄関のドアを開けた。隙間から朝の陽射しが射しこんできた。眩しい。逆光で影法師のようになった彼が、外に出てドアを閉めようとした。
「あ、待って……!」
思わず引き留めてしまう。
「ん? 何?」
「……また、来てね」
そう告げると、彼は大きくうなずいてドアを閉めた。彼の足音と気配がどんどん遠ざかっていく。鉄製の階段を下りていく音もそのうち消えた。
それを確認して、私はその場にへたりこんだ。
「……ごめんなさい……」
そして、見えなくなった彼に向かって詫びた。
私は彼に嘘をついた。本当に言いたかったこと、言わなければいけなかったことを言わなかった。
「私は両親を殺しました。
私の看病と治療費の捻出に疲れ果てて死んだのです。
私が殺したのです。
私は生まれつき病弱で、今も全快したとは言えないし、いつどんな病気になるかわかりません。
私が先に死んでも、あなたが先に亡くなっても、辛い終わりにしかならないような気がします。
それに、私は多分、子供も産めません。
私はあなたに何も残してあげられません。
私といるとあなたはきっと不幸になるだけ。
私にはそれが恐ろしい。
だから、結婚なんてできません。
でも、私はあなたが好き。どうしようもなく好き。
お願い。
後生だから、早く私を捨てて下さい」
言わなければならなかったのに。
「結婚なんてできません」って。
もう絶対に言えない。
あの熱い唇と強い腕に融かされた愛欲が私の体の隅々にまで染み渡り、理性の邪魔をした。苦しむだろう彼を見る怖さよりも、彼を失う怖さの方が勝ってしまった。
私はこれから彼に愛されるための最大限の努力をする。自分に不利になるようなことは何も言わず、着々と婚礼の準備を進めていく。そうして、私たちは近い将来結婚するだろう。彼が不幸になることがわかっていながら、私は笑顔で花嫁衣装に袖をとおす。自分の幸せのためだけに。
私はあと何年生きられるのだろうか。一年後には骨になっているかもしれない。五十年後も元気かもしれない。
とにかく、一番愛しい人の傍で私は破滅の日を恐れ続ける。
それが私の、ゲームになんてならない罰。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
涙と一緒に溢れだしたその叫びは、彼に届くことはない。
ふと、背中が温かくなった。振り返るとまぶしかった。位置を変えた太陽の光が台所の窓から玄関に届いていた。
味噌汁は、まだ沸騰している。
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| 本編情報 |
| 作品名 |
なまぬるいスープ
|
| 作者名 |
曽野 十瓜
|
| 掲載サイト |
That's right.
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| 注意事項 |
年齢制限なし
/
性別注意事項なし
/
残虐表現あり
/
完結
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| 紹介 |
突然の奇病に襲われた妻。
「……私、あなたのことも殺すのかしら……」
迷走する夫。
「どうすればおまえと同じ肉体になれるんだ……?」
ふたりの世界が淡々と、ときに劇的に溶解していくのだった。
夫視点で描かれる、現代ファンタスティック心理ホラー愛情物語。
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