ステンドグラスがはめこまれたドアを開いた途端、秋の夜の張りつめた冷気が京子の肌を粟立たせた。
「うわ、寒い」
 思わず、体を抱くように両腕をさすった。ロングスカートの裾から夜風が潜りこんでくる。ほんの数秒で腰が冷えてしまった。
「でも、ほてってるから気持ちいいわ」
 半歩後ろで、薄紫のニットカーディガンの肩にピンクのストールを掛けた絵里が両手で顔を包んだ。三杯のカシスオレンジで上気した頬よりも、目尻の方が赤い。
「京子も飲めばよかったのに」
「やぁよ。せっかく五年も禁酒してるのに。それに、明日仕事なんだもん」
 洋風居酒屋を出た二人は川べりの並木道を歩き始めた。パンプスのヒールがアスファルトを緩やかなリズムでノックする。
「本当に寒くなったね。昼は暖かかったのに」
「もう紅葉だもんね」
 見上げた先に映るのは、黄色から赤へ染まりつつある桜の葉だった。色の移ろいとともに発酵しているのだろうか、枝の下はどこか懐かしいかぐわしさにあふれている。
「ついこの間、花見したような気がするんだけどね。三十過ぎてから、季節の変わるのがやけに早く感じるわ」
「人の気持ちもね……」
 採れたての桃のようにみずみずしい絵里の唇から、震えた声が漏れた。京子のこめかみで、奥歯にしぶとく残っていたクリームブリュレのカラメル飴が更に砕ける音が鈍く響いた。デザートと共に締めたはずの愚痴がまた始まる。振り出しに戻る、だ。
「チビでデブでちっともタイプじゃなかったけど、つきあってあげたのに……。せっかくやっと好きになりかけたのに……。ていうか、……そっちから告白してきたくせに……、三週間で『もう飽きた』なんてね。……ホント、早すぎ」
「だーから、そんな奴別れて正解だってば。次はきっといい男に会えるって」
 すかさず苦笑い混じりに慰める。これで何回目だろうか。もうすっかり慣れたものだ。何も考えなくても舌が勝手に動いてしまう。
「あはは。毎回そう思ってるわ。飽きられて捨てられて、三十七人目」
 「じゃぁ、少なくとも二十回は超えてるな」。思い返してみれば、大学時代から十三年間同じパターンの繰り返しだ。その度に京子はこうして絵里を慰め、励まし続けている。思わずこぼした白い溜息が木枯らしに流されて消えた。
 右手に薬屋が見えると、そこが二人の分かれ道だった。直前で絵里が足を止めた。つられて京子も立ち止まった。
「絵里? どしたの?」
 すると彼女は、首を傾げる京子の顔を探るように覗き込んだ。
「京子、昔っから秘密主義で、自分の恋愛のこと、何も話してくれないけどさ――」
 何人もの男友達の口から聞かされたことがある。「絵里は、肩をすくめて見上げるときのウルウルの瞳がそそるんだ」と。今、彼女は同じ瞳でこう問い掛けた。
「――男に捨てられたこと、ある?」
 正直に答えた。頭を左右に振ることで。
「そっかぁ。いいなぁ。ずっと安泰なのね。じゃあ、結婚も近そうだよね。今度、彼氏の写真ぐらい見せてよね」
 唇を少し尖らせ、すねた口調で早口に言い放つと、絵里は反応を待たずに川の方へ体を向けた。黒い水面に映る白い光が小刻みに揺れている。さわさわと耳をくすぐる音は、川のせせらぎなのか桜の葉のさざめきなのか区別がつかなかった。両方なのかもしれない。
「よし!」
 気合一番、しぼんでいたカーディガンの細い背中に元気がみなぎった。
「これでなんとかふっきれた! 女、三十五歳にぐずぐずしてる時間は無い! 次の恋にがんばるゾ、と!」
 振り返った顔にはガーベラの花がほころぶような笑みが咲いていた。その笑顔に、京子は無言でうなずいた。
「じゃ、明日も仕事がんばってね。彼氏できたら報告する!」
 大きく手を振って背を向けた絵里は、バス停へ続く並木道をまっすぐ歩き始めた。見送っていた京子も、靴音が聞こえなくなったところで歩きだす。いつもどおり右折した。
 右折するや否や、足を速めた。走るまでとはいかずとも、競歩並みの速度である。スカートの裾が夜風を裂いて翻る。川のせせらぎも葉のさざめきも届かず、パンプスのヒールがアスファルトを乱打する音だけが響いた。
 アパートの自室に突入する。右側の壁がかすかに揺れたと同時に明かりが点いた。右拳の軽い痛みを散らすように手首を振りつつ、台所へ向かう。通勤用ハンドバッグを投げ捨て、そして、扉をもぎ取る勢いで冷蔵庫を開いた。
 そこにはニラの葉一枚すら入る余地がないほどみっしりと缶ビールが詰めこまれていた。
 京子はビールを一本引き抜き、プルタブをひねるや否や一気に呷った。そうしながら、食器棚の扉を開いた。さきいかや柿の種、チーズ鱈の徳用パックの数々がなだれ落ちてくる。さきいかを拾うと、缶を持ったまま、歯で袋の口を引きちぎった。
 と、右の脇腹が細かく震えた。携帯電話のバイブだ。さきいかの袋を落とすと、ジャケットのポケットから携帯電話を取り出した。メールが届いている。差出人は絵里だった。

『かなり楽になったぁ(´∀`)-3
 今日はつきあってくれてサンキュ(>∇<)b
 持つべきものは親友よね(^ε^)-☆Chu!!』

 メールの受信ボックスには、絵里専用のフォルダがある。開くと、メールの題名リストが表示された。

『o(^-^)oイケメン彼氏ゲッツ o(^-^)o』

『また捨てられたぁ(iдi) うさばらしつきあってぇ(;´д⊂)』

 彼女から届くメールの内容はこの二種類に大別されていた。どれだけスクロールしても他の用件を表す題は現れない。
「『親友』ってぇのは、てめぇの自慢と愚痴を垂れ流す相手のことかよ!」
 空になった缶をゴミ箱に投げつけた。しかし、そこはすでに缶の山。弾かれて転がり落ちてしまった。それどころか、ガンガラガンガラとけたたましい金属音をたてて山が崩落した。
「『ずっと安泰』? 『結婚も近そう』だぁ? どっから湧いて出るんだよ、そんな妄想! 話も聞かずに勝手に決めんな!」
 全く頓着せず、二本目のプルタブをひねる。
「まぁ、話しゃしねぇけどな!」
 フローリングの上を未だ転がり続ける空缶を蹴り飛ばして場所を作り、壁にもたれて腰を下ろした。携帯電話をつまみの小山へと放った手でさきいかをつかむ。
「悲劇のヒロインぶりやがって。『つきあってあげた』ぁ? 三十七人? 本当は男の数、自慢したいだけだろうがよ! えぇ!?」
 アルコールの巡りに任せ、思う存分毒づく。五年も禁酒しているのは、友人たち――特に絵里――の前でだけだ。
「飽きられようが、捨てられようが、一度でも拾われたことがあるだけマシだっつうの!」
 酔った拍子に口を滑らせて人間関係を崩してしまわないように。なにより、余計な恥をさらして哀れみと物笑いの的にされてしまわないように。
 明日も仕事だが、そんなことはどうでもいい。飲まずにはいられない。生まれてこのかた、男に捨てられたことがないが拾われたこともない女は、さきいかを溶けるまでしゃぶり続け、滝のようにビールを流し込み続けたのだった。






■END■

4th ANNIVERSARY...?
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