溜息混じりの声と共にテーブルに投げ出された紙束の重さが、二つのお冷グラスの水面を微かに波立たせた。
「下手すぎる」
 半年を費やして書き上げた原稿用紙三百枚の長編は、五分足らずで通読を放棄された。
「とてもじゃないが、読めたもんじゃない。これじゃ、うちの文芸担当に推薦するのは無理だな」
 思いもよらない酷評に絶句する私を後目に、編集者である大学時代の友人・小宮は煙草に火を点けた。
「なぁ。『小説家になる』って会社辞めて何年だっけ?」
「……五年ぐらいかな」
 答える声が震える。妙に目が滲み始めた。涙が出そうな程だ。眼前で棚引く紫煙の所為だ。
「五年? ……そうか。香さんも大変だな」
 衝撃の大波が引かない内から持ち出された妻の名が、私を酷く憂鬱にさせた。
 戯れに書いた処女作が、小さいとは云え出版社が主催する賞に入選した。これを天啓として職業作家を目指し始めてから五年。最初こそ「私が働くから大丈夫。あなたは書くことに専念してね」と協力的な彼女だったが、今では「とっとと働け、役立たず」などと喚き散らすだけだ。今朝も出掛けに喧嘩になり、玄関で掴み合いになりかけたところを乱暴に振り払ってきたのだ。
 ふと、横の椅子に置いたブリーフバッグの中から電子音が聞こえた。携帯電話の呼出音だ。すぐに切れたところをみるとメールかもしれない。
「ちょっと、悪い」
 断りを入れて、携帯電話を確認した。何の着信だ? 半年前に応募した文学賞の入賞通知か? はたまた香からの謝罪のメッセージか?
『淋しい団地妻とHしまくりませんか!』
 ただの迷惑メールだった。電話を真っ二つにへし折ってやりたい衝動を堪え、平静な表情を顔に貼り付かせながら無言でバッグへ戻した。
「さて、と」
 これを汐[しお]とばかりに、小宮がまだ長い煙草を白い陶器の灰皿に押し付けた。まさか、もう帰るつもりなのか? いくら何でも早過ぎるだろう。
「俺の作品の何が悪いんだ?」
 そうだ。自信作を馬鹿にされた悔しさに半泣きで帰る事も「俺のセンスと才能を理解出来ないカスめ」と切り捨てる事も簡単だが、このまま手ぶらで帰るわけにはいかない。小説とは全く関係の無い求人雑誌の編集者であったとしても、相手は一応「プロ」なのだ。少しでも何かを得て帰らねば。夫婦関係の危機に瀕してまで、此処に来たのだから。
「『何が』って」
 校正用のノック式赤ボールペン片手に身を乗り出した私の熱に圧倒されたのか、彼は軽く仰け反った。
「テーマか? 構成か?」
 「最後まで読んでいないくせに、人類の存在意義の根幹に関わる壮大なテーマを波斯絨毯[ペルシャじゅうたん]の如き緻密なプロットで織り上げたこの大傑作の素晴らしさが解るものか」。腹の中でそう毒吐きつつも、尋ねてみた。
 小宮は唸る。
「それもそうだが、まず文章がなぁ……」
「文章? 何処が?」
 豊富な語彙で紡いだ、格調高く端整な美文であると自負しているのだが。
 小宮は唸り続ける。
「うーん……。難読漢字使ったり、独自の比喩で頑張ってるのは解るけどな。要らんところで漢字使い過ぎだし、情景はおろか状況もあんまり良く書けてないし、語り手の動作と心情を説明文してるだけで退屈だ。しかも、その説明も巧くないもんだから、もう何が何だかわけ解らん」
 確かに紋切り型の表現は努めて避けている。が、決して難解ではない。標準的な読解力があれば労せず読める筈だ。何故わけが解らなくなったりするんだ?
 私には小宮の頭の構造の方がよっぽどわけが解らない。こいつは何故この程度のお頭[つむ]で、編集者として飯を食っていけているのだろうか?
「まぁ、何だ。暫くは短編の数をこなす事を勧めるよ。あ、お前の場合、短編と云うか写生文で修行する方が良いかな」
 短編などという金にならない小物をちまちま書いている暇は無いのだ。長編の賞で百万円単位の賞金を獲り、ベストセラー化させなければ。早く香に楽をさせてやらなければ。
 左右に振ろうとした私の首は、しかし、小宮のある言葉に留められて右に大きく傾いだまま止まった。
「写生、文?」
 聞き慣れない言葉だった。絵なら兎も角、文で写生とはどう云う事だ?
 お冷を飲み干した小宮はグラスを置くと、私と同じ様に身を乗り出した。額同士が密着寸前だった。
「場所や物を観察して、目で見たまま文章に起こすんだ」
 何だ、そのまんまではないか。
「観察眼も磨けるし、説明も的確になる。文章力が上がるぞ。一つの材料につき四百字位なら、毎日のトレーニングにもってこいじゃないか?」
「ほう」
「それに、短ければ読むのも簡単だし、香さんからも感想貰い易いだろ」
「ふむ」
 正直、私にはレベルの低過ぎる修行内容だと思ったが、よくよく考えてみると面白そうだ。
 毎日違うものを書くと云うのが新鮮で良いではないか。長編執筆の合間の良い気分転換になりそうだ。文章力も上がると云うし、何より感想を貰い易いと云うのが気に入った。良いではないか、乗ってやろう。
 私は漸く赤ペンとテーブル上の原稿をブリーフバッグに片付ける気分になれた。


□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 ――何を書こうか。
 小宮と別れた後、家路で考える事はそればかりだった。
 何を書こうか。愛用のボールペンにするか、専用の箸にするか、それとも結婚指輪にしようか? 記念すべき一発目だ、先ずは特別な素材を扱いたい。
 香と二人三脚で暮らしてきた木造アパートが見えてきた。心が躍る。早く書きたい。夕方、彼女が仕事から戻る前に一作書き上げておきたい。そうして、夕餉の話の種にするのだ。きっと仲直りできる筈だ。
 写生という文章修行を重ねる度に私は成長していく。一皮剥けた私が文壇を席捲する日は近い。
 ドアノブに鍵を差し込む。鍵は何の引っ掛かりも無く回りきった。
「ん?」
 ドアノブを掴む。ノブは何の引っ掛かりも無く回りきり、何の引っ掛かりも無く引く事が出来た。
「戸締りを忘れて出て行ったのか? 無用心な――」
 妻に対する怒りが再燃しかけた、その瞬間だった。全身が氷柱のように硬直した。三和土[たたき]に鍵が落ちる。背後でドアが遠慮がちな音を立てて閉まった。
 右手から零れ落ちた鍵の先には、肌色のストッキングに包まれた足の裏。朝と変わらぬ出勤用のパンツスーツ姿の香が下駄箱に背中を預け、両腕を三和土に投げ出し、だらしなく脚を開いて座っている。
 見開いた眼で中空を凝視したまま。半開きの薄紅色の唇から舌先を覗かせたまま。
「かお、り……?」
 しゃがんで呼びかけてみたが、反応は無い。
 肩を揺さぶろうとしたが、掴んだ途端、あまりの硬さに思わず手が引っ込んだ。その振動で彼女の顎が微かに揺れ、背中がずり下がった。
 それだけ、だった。香は瞬き一つしない。微動だにしない、自発的には。
 恐る恐る、掌を口許に翳してみた。風を感じない。呼気も吸気も。
 どっと力が抜けた。尻餅をついてしまった。
「……嘘だろう……?」
 ……出掛けに喧嘩になり、玄関で掴み合いになりかけたところを乱暴に振り払って……、その後、転んだか何かの拍子で下駄箱に頭をぶつけていた?
 わ、私の所為か?
 いや、しかし、そんなに強く振り払ったわけではない。私の所為ではない。そうに決まっている。きっと、他に犯人が存在する筈だ。
 って、何をしているんだ、私は! 誰がやったとか、そんな推理は後回しだ! もっと先にやらなければならないことがあるだろう!?
 慌ててブリーフバッグを引き寄せ、ジッパーを全開にする。中の物を手当たり次第に掻き出した。
 原稿の入った角二型クラフト封筒、財布、ハンカチ、名刺入れ……なかなか出て来ない。
 ええい、まだるっこい! バッグを逆さに振って、中身を三和土にばら撒いた。
 ポケットティッシュ、携帯電話、あ――あった!
 探し当てた物を掴む。汗で滑り落ちそうになるのをしっかりと握り直した。
「何て事だ……!」

 ぬめる眼球の血走り具合。乾きかけた舌先の質感。弛緩しているようで引き攣れている口角の筋肉。それぞれに違う曲がり方を見せる両手の指。ストッキング越しの踵に散る暗褐色の斑点――

 何て事だ。
「先ずは特別な素材を扱いたい」
 願いが叶ってしまった。何と云う幸先[さいさき]の良さ。
 薄茶色のクラフト紙が赤い文字で埋め尽くされていく。握り締めたボールペンは、封筒の上を滑らかにスケーティングし続ける。ああ、四百字ではとても纏まりそうにない。いや、甘えてはならない。制限字数内に纏める事もまた修行だ。
 写生という文章修行を重ねる度に私は成長していく。文壇を席捲する日は近い。
 さあ、書くぞ。新しい私への第一歩だ。








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