両耳の奥から音がわいてくる。ゴウゴウと、あぶくの群が渦巻く音だ。担任の声がのみこまれていく。
 また耳鳴りかよ。シャーペンのキャップでこめかみを軽く叩く。
 耳鳴りがしたり、軽くめまいがしたり。このごろちょっと調子が悪い。寝不足のせいだろうし、いつもすぐに止まるから、あんまり気にしないようにしてるんだけど。授業中はかんべんしてほしい。
 今は脂ギッシュメガネの担任が「地球温暖化で津波がどうの」とか、くだらない雑談してるからいいけど。教科書や板書で授業内容はわかるとはいえ、耳からの情報がなくなるのは、けっこうつらい。
 あと3カ月でセンター試験だ。時間がない。見逃したこと、聞き逃したこと、そのひとつが一点の差になる。合否に関わるんだ。
 僕は絶対に、志望校に合格しなきゃいけないんだから。
「えー? 世界沈没? ホントにー?」
 左から飛びこんできたキンキン声が、耳につまっていたあぶくを割った。音がクリアに聞こえるようになったかわりに、今度は残響で鼓膜が痛い。隣の席の女子をにらんだ。
 伊磨形 舞[いまがた まい]。かわいくて明るいからって人気があるみたいだけど、僕は嫌いだ。
 結べばいいのに、何回も何回もセミロングの髪を右耳にかき上げるしぐさがうっとうしいし。誰かの言うことをなんでもかんでも拾っては、反応しなきゃ気がすまない、クラス一うるさい女。空気読んでるつもりなんだろうけど、必死な感じがして逆にサムイ。人気取り・ご機嫌取りに必死なのは、代議士やってる父親の影響なんだろうな。
「あたしら、溺れ死んじゃうってこと? こわーい!」
 いいね。いつくるかもわからないような海の波を怖がるその余裕。本人の力か親の力か知らないけれど、名門女子大に推薦入学が決まってるからこそなんだろうね。
 僕なんかもう溺れかけてるよ。いつも爪先立ちで喘いでるんだ。家でも塾でも学校でも、見えない波にあごまで浸されて。聞こえないはずの海鳴りに頭いっぱい浸されて。
 いっそ今すぐ津波がくればいいんだ。テストも高校も、受験も大学も父さんも母さんも兄さんも全部、全部全部流されて沈めばいいんだ。

 冷たく暗い深海で、僕は早くあきらめたい。

 ふと、眉間で何かが弾けたような気がして、まばたきをする。
 伊磨形が、少し眉をひそめて僕を見つめ返していた。髪を右耳にひっかけながら。リスみたいな、黒目がちの大きな目で。
 あわてて顔を黒板へ戻した。耳鳴りは小さくなり始めていて、教壇では「地球温暖化ってデマなんだって話もあるらしいぜ」という誰かからのツッコミに、担任がメガネレンズの脂を拭き取りながら口ごもっていた。




 六時限目と終礼の間の掃除タイム。「外なんか掃除したって意味ないよな」なんて、毎日思うことを今日もつぶやきながら、竹ぼうきを持って校舎横の自転車置き場へ向かった。
 風が少し吹いていて、見上げると、ちぎったわたあめみたいな雲がゆっくりと青空を流れていた。
 フェンスごしに立ち並ぶイチョウの葉っぱが、何枚か落ちてきた。黄色い。ついこの間まで緑色だったのに。どんどん色あせていく。どんどんどんどん、落ちて、いく。
 落ちた葉っぱを眺めていると、後ろから高い声に名前を呼ばれた。
「津守[つもり]くん、ヤッホー」
 え? この声って……。
「伊磨形さん? どうして? 教室の担当だろ?」
「代わってもらったんだー」
 代わってもらった? そのわりには、竹ぼうきも持ってきてないし。サボる気だな。
「津守くんに言っときたいことがあって。もう時間、なくてさ」
 教室でたまに絡まれることはあるけれど、こんなふうに面と向かって話しかけられるのは初めてかもしれない。言っときたいこと? なんだ?
 首をかしげると、伊磨形は例のごとく髪を右耳にひっかけて笑った。
「あ、今、『あなたのことが好きなの』って告白されるんじゃないかって期待したでしょ? 津守くん、けっこういつもあたしのこと見てるしー」
 うわ。なんだ、この自信過剰女。バカじゃないか?
「……ちがうよ。めんどうくさいな」
「なによー、ちょっとした冗談よ。そんな心底ウザそうな顔しなくたっていいじゃない」
 ああ、ウザイ。マジ、ウザイ。本当に何しに来たんだよ、こいつ。
「用があるなら、とっとと済ませてくれないかな。僕は伊磨形さんみたいにお気楽極楽なヒマ人じゃないんだから」
 竹ぼうきでコンクリートに散ったイチョウを払う。伊磨形を追い払うように。
「カンジ悪いー。あたしの何を知ってて、お気楽極楽だとか決めつけちゃってんのよ。ま、何も知らせちゃいないけどさ」
 ほっぺたをわざとらしく膨らませて、おどけていた伊磨形の顔と声が、
「あたし、アンタ嫌いだわ」
 突然、一気に冷えた。
「『僕がこの世で一番繊細で苦労してて、周りがバカすぎて悩んでますー』みたいな顔して、他人にガンつけてるヤツなんて大嫌い」
 僕の背筋も冷えた。というか、凍った。
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 いきなり他人の掃除場所に現れて、いきなりちょっかいかけてきて、いきなり上から目線でケンカふっかけるようなこと言いだして。
「なんだよ……? 意味わかんないんだけど……」
 びっくりした肺でたまっていた息と一緒に、いらだちがこぼれ出る。
 落ち着け、僕。スルーすべきなんだ。こんな無神経なバカ女の言うことなんて、相手にするだけ時間のムダだ。わかってる。
 わかってる。けど、

 ドウシテ、コイツニコンナ偉ソウナコト言ワレナキャイケナインダ?
 
 次に息を吸った瞬間、腹の底で何かが膨張して、口から噴き出てきた。
「なんだってんだよ! 何を知ってて決めつけてるんだって、そんなのこっちのセリフだよ!」
 僕は竹ぼうきを放り出して、ふんぞり返る伊磨形に詰め寄らずにはいられなかった。
「僕だって、おまえのことなんか大嫌いだよ! 授業中も休み時間もギャーギャーギャーギャー、キンキン声でわめきやがって! ウザイんだよ! さっきだってくだらないことで騒いでさ。地球温暖化で溺れ死ぬって、いったい何年後の話だよ! のんきなもんだよな。おまえはなんの苦労もせずに志望校に合格できてお気楽気分なんだろうけどな!」
 怒りに乗せて文句が噴き出す。沸騰した湯面で泡立つ水蒸気みたいに。セーラー服の襟をつかまないようにガマンするのに必死だった。
「こっちはな、必死なんだよ! 中学受験のときから兄さんと比べられっぱなしだし、偏差値六十七もある地元の国立にしか行かせないとか言うし! しかも奨学金取れとか言うし! だから勉強しまくってるけど、どんだけやっても成績上がらないし――」
 うちは裕福じゃない。頭のいい兄さんは国立中学から国立の医大へ進学した。学費は親が出した。国立中学も国立高校も受験失敗して、二流の私立高校に滑りこんだ僕に、親はもう金を出さないと言う。浪人も許さないと言う。スポーツ推薦なんて手もあったかもしれないけど、僕はドジでのろまで、運動神経はナメクジ以下だ。逃げ道なんてない。勉強するしかない。ああ、勉強してるよ、寝る間も惜しんで。でも、点数が伸びない。怖い。どうなるんだ。国立に入れなかったら、僕は来春ニートになるんだぞ。ニートなんて、人生の敗者じゃないか。父さん母さん兄さん周りの連中に、なんてバカにされるかわかったもんじゃない。そんなの絶対イヤだ!
「――――っ」
 声が、出なくなった。
 喉で詰まっている。言いたいことは次から次へとわいてくるのに。声帯にフタをされたみたいだ。
 出口を失ったグチが体じゅうを巡り始めた。音をたてて。
 ゴウゴウと、あの、海鳴りのような音をたてて。
 なんだか苦しくなってきた。声だけじゃなくて、息も吐き出せない。吸えない。窒息しそうだ。気持ち悪い。目の前が揺らぐ。
 伊磨形の整った顔が不気味に歪んでいく。
 僕の視界が青く染まった。伊磨形をにらんでいたはずなのに。
 青に、どこかから流れてきた白が混ざりこむ。白の輪郭が歪んで、溶けて、まだらがひろがっていく。
 ここはどこだ? 本当に水の中にいるみたいだ。なんで?
「津守くん!」
 肩をつかまれた。やめてくれ、触らないでくれ。だけど、体に力が入らない。振り払えない。
「だいじょうぶ?」
 耳鳴りの向こうから聞こえる気遣いの言葉にも、こたえる声が出ない。「とにかく座って」と肩を押されて、ゆっくりと腰を下ろす。
 座ると、少し落ち着いて、自分の体に起こってることが理解できた。目が回ってるんだ。
 今まで耳鳴りもあった、めまいもあった。だけど、同時にこんな強烈なのが襲ってくるなんて、初めてだ。なんでこうなったんだ?
「ごめん。カッとなって言いすぎちった」
 横に伊磨形が座ったのを気配で感じた。見ようとしたけれど、目を動かすと吐き気がこみあげてきた。
「んー、せっぱつまってんのは、見てればわかるよ。親の都合であれやこれやっていうのは、あたしも同じだしさ」
 違う。金持ちの家の人間とは違う。すんなりと行きたいところへ行けるやつとは違う。
「だけど、『もうちょっと力抜けば?』って思っちゃうんだよね。津守くんだけじゃなくて、みんなに対してだけどね。あたしとしては、受験受験でキリキリしたクラスの空気をやわらげたいんだよねー。日々、楽しく生きたいじゃない? センターまで、あと3カ月もあるし」
 違う。「あと3カ月も」じゃなくて「もう3カ月」なんだよ。
 そう言い返そうとしたとき、
「でも、無神経すぎたのかな。ごめんね」
 謝られてしまって、僕はただコンクリートの地面を眺めてることしかできなかった。
「ねぇ、津守くん、今、ひょっとしてゴボゴボだのゴウゴウだのって音が聞こえてない?」
「え? あ、うん」
 吐き気をこらえて顔を上げ、伊磨形を見た。どうして、わかるんだ?
「よく耳のあたり触ってたし、で、このふらつき具合だし」
 「やっぱりね」と、彼女のほほえみがどこかかなしそうにくずれた。
「それ、たぶん、かたつむりが溺れてる音」
「かたつむり……?」
 どうして今、そんな生き物が出てくるんだ?
「すぐ耳鼻科に行った方がいいよ」
 伊磨形は僕の肩をポンポンと軽く叩いて立ち上がった。そうして、ぽつりと言った。
「負けんなよ」
 静かに投げかけられた、その強い言葉の意味がわからなくて、遠ざかっていく彼女を追おうとした。だけど、ちょっと身じろぎしただけでも、猛烈に目が回る。立ち上がるどころじゃない。
 明日、聞けばいいか。僕はかんねんして目を閉じて、耳鳴りとめまいが消えるのを待った。

 伊磨形の言葉の影響だろうか。
 閉じた視界に、あぶくの中をたゆたいながら青黒い海溝へ吸いこまれていくかたつむりのイメージが見えた。




 やばい、遅刻する……!
 僕は腕時計とにらめっこしながら通学路を走っていた。寝坊だ。受験勉強でふだんから宵っぱりなところに、病院でもらった薬のせいでやけにトイレが近くなって、ぜんぜん眠れなかった。
 あれからやってきた保健の先生に総合病院へ連れて行かれ、内科やら脳神経外科やらを回されて、結局耳鼻科に落ち着いた。伊磨形の言うとおり。
 原因としてストレスがよく挙げられる病気で、内耳が水ぶくれを起こしてるらしい。
 診察室で耳の模型を眺めていたとき、生物の授業で習ったことを思い出した。内耳に、ぐるぐると渦を描く蝸牛[かぎゅう]という器官がある。「蝸牛」という言葉自体がかたつむりを指してはいるけれど、手前にくっついている三半規管と合体させて見ると、なおさらだ。もう、頭を伸ばしてるかたつむりにしか見えなくなってしまった。
 この病気は、自分自身がためこんだ水分のせいで内耳が内側からパンパンに膨れてるってものだけど。僕がイメージした、海中を沈んでいくかたつむりとは少し違う状態だけど――

 ――「かたつむりが溺れてる音」、なるほど、なんか納得した。

 昨日、保健の先生が来たときにはもう、伊磨形の姿は消えていた。今日、礼を言って、謝らなきゃな。暴言吐かれたけど、こっちも吐き返したし。彼女、なんだかんだと二回も謝ってたし。なにより、保健の先生呼んで、助けてくれたんだし……。
 遅刻ギリギリで教室に着いてみると、中はなんだかすごくにぎやかだった。男子も女子も、顔を赤くして騒いでいる。
「マジかよ。捕まったって?」
「ホントだって。あんた、新聞読んでないの? ニュースでもやってたじゃないの。オショクジケンだってさ」
 酸欠気味の脳みそで女子の言葉を「お食事券」と変換しながら、席について一時限目の用意をする。
「ねぇ、舞、どうなっちゃうのかなぁ?」
 『マイ』?
 このクラスに女子が『マイ』と呼ぶような人間は一人しかいない。伊磨形しかいない。
 左の席は、空いていた。
「舞にさりげなくおはようメールしたけど、返事来ないんだよね……。学校も、しばらくは休むことになるかもね」
「来れねーだろ。おれらの親からパクった税金返してくれなきゃなー」
「ちょっと! なによ、その言い方! 舞が悪いわけじゃないのに!」
 伊磨形がどうかしたのか?
 さっき新聞とかニュースとかって言ってたけど、寝坊したせいで何も見てない。普段なら他人の話に首をつっこむなんてことはしないけれど、何の騒ぎなのかをつい尋ねたくなった。
 けれど、八時十五分の予鈴が鳴ってしまい、すぐに担任が入ってきた。いつもよりやけに早い。
「えー、みなさんに報告があります。突然ですが……」
 朝だというのにもうメガネを脂で濁らせている担任が、口を開いた。開いたまま、数秒、何も言わずに出席簿の角で教壇を軽くノックしていた。切り出したはいいが声に出せない、そんな感じだ。
 騒がしかった教室、左の空席、何かを言いよどむ担任。いやな予感しかしない。本当に何があったんだ? ……なんなんだよ? 早く言えよ……!
 僕だけじゃなく、教室全体が重い沈黙のなか、イライラのさざなみに揺れているのがわかる。みんなが、担任の「報告」を待っている。
 担任は一度唇を引きしめると、全体をぐるりと見回して出席簿を置いた。そして、教壇に両手をついて息を大きく吸った後に、硬い声で、告げた。
「伊磨形 舞さんは、昨日をもって自主退学しました」

 え?

 一瞬のあと、無音のさざなみがざわめきに変わった。女子の一人が立ち上がる。
「退学って……!」
 それをきっかけに、次々と声があがる。 「私たち、舞から何も聞いてません!」
「どこに転校したんですか!?」
「ニュースで言ってたお父さんの汚職事件のせいですか!?」
 担任は何をきかれてもただうなずくだけで、何も言わない。
「……うそ! 番号使われてないとか言ってる!」
「メールもあて先不明で返ってくる! さっきまで、ちゃんと届いてたのに!」
 他の女子たちが校則で禁止されているケータイを取り出しても、何も言わなかった。
「ひどいよ、こんな突然!」
「相談してくれればよかったのに……!」
 悲鳴のような声が飛びかう中、どこかぼう然としながらも、僕の頭は緩やかに回り始める。
 伊磨形がこの学校から消えた。親のせいで。
 そういえば、言っていた。「時間がない」って。たぶん、退学が決まったのは突然で。伊磨形がどこに行ってしまったのか、担任も知らないのかもしれない。
 推薦入学が決まっていた大学にも進学しないんだろう。きっと、誰も彼女を、いや、彼女の父親のことを知らない街に隠れてしまったんだ。じゃなきゃ、クラスの空気を気にしまくってた伊磨形が、ケータイを解約する意味なんてない……。
 担任はしばらくみんなが騒ぐのに任せていたけれど、5分後の本鈴と同時に手を打って、ざわめきをしずめた。
「さあ、授業を始めましょう。問題集の285ページを開いて」
 それでもざわついてはいたけれど、やがて女子たちはケータイをバッグにしまい、聞こえるのは担任の声と、みんながノートにシャーペンを走らせる音だけになった。いつもの授業風景になった。
 左隣の席はぽっかり空いてしまったけど、他には何も変わりなく、見えない波に窒息しそうな「いつも」が続いていく。
 朝の光をにぶく照り返す机の天板を眺め、僕は伊磨形の今までを反すうした。

 いつも髪を気にして右耳にかけていた彼女。本当に気にしてたのは、髪?

 昨日から抱いていたいろいろな「どうして」のかたまりが、水に入れた角砂糖みたいにもろもろととけていく。正解かどうかは、わからないけれど。
「負けんなよ」
 伊磨形が残した言葉を、声には出さずに唇でかたどる。自分に言い聞かせる。
「おまえもな」
 同時に、それは呼びかけでもあった。僕なんかよりもずっと前から溺れていて、今はもう見えないところにまで流されてしまった同類への。
「どこにいるのか知らないけど、見つけ出して礼を言うまで、僕も負けないからさ」
 そして、僕はシャーペンをにぎりしめ、黒板を見すえた。強く、強く。






■END■

Thank you for all readers.



写真素材:君に、



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