『よがれの唄』

「ああ、あれは『よがれの唄』さ」
 「夜中に歌うあの恐ろしい唄は何」と尋ねた私に驚きの表情を見せた後、母様はそう答えてくれました。
 母様の仕事は三味線を弾き歌うこと。二人で暮らす家には、男の方達が金子[きんす]を手に通って来ます。当然です。時に谷を渡る鳶[とび]の如し、時に梅の枝に佇む鴬[うぐいす]の如し。母様が歌えば、全ての曲は極楽鳥の調べとなるのですから。
 ところが私が寝た後、母様は怪しい唄を歌い始めるのです。閉ざされた襖の奥で、節も調子も滅茶苦茶な、野犬の遠吠えに似た唄を。
「おまえの父様も此の唄を聞いた後、去って行った。酷いもんだよ。酷い唄だ」
「ならば、母様、歌わなければ善いのに」
「おまえには、あれが唄に聞こえるのだね」
 提案をはぐらかすように微笑んで簪を挿す母様が、何故か泣きそうに見えたものでした。
 数年後の今、此の家にもう母様は居りません。襖の奥に居た筈の回船問屋の御主人に伸し掛かられて、私が初めてあの唄を漏らしてしまった夜から、もう。三味線と共に忽然と。
 その後も御主人は頻繁にお見えになりました。寝物語に『よがれの唄』について話すと、或る事を教えて下さいました。女の許へ通う男の足が遠のく事を「夜が離れる」と書いて「夜離れ[よがれ]」と呼ぶのだと。「善がり声と引っ掛けたんだな。風流な女だ」と続け、「風流な女」を捨てた男は再び私を貫いたのでした。
 それにしても、どういう事なのでしょうか。交われば交わる程、男は離れて行くという事でしょうか。私の愛しさは増す一方なのに。
 此頃、御主人はお見えになりません。別の男達が押し掛けて来ては、去って行きます。
 私に母のような極楽鳥の才は有りませんでした。歌えるのは、あの酷い唄だけ。昼も夜もなく、嗚呼、これは『夜離れの唄』。






 



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